はじめに
今年の3月2日、ネクスト道徳の発表会が開催されました。
若手から中堅、ベテランまで、実践を語り合う素晴らしい学びの時間。登壇者たちは、直前まで講師陣とともに何度も手直しを重ね、本番では本当に見事な発表を届けてくれました。
しかし、その熱い現場の一方で、私はある“違和感”にも直面しました。
今日はその両面を、率直に綴ってみたいと思います。
実践者同士が“ぶつかり合う”尊さ
登壇者たちは前日の深夜まで、講師との意見交換を繰り返しました。準備してきた原稿を前に、ああでもない、こうでもないと何度も修正を加える。
言われることに戸惑いながらも、誰一人として後ろ向きにならず、むしろ「もっと良くしたい」と前向きに受け止める姿に、心を打たれました。
今、学校現場では“お互いに意見をぶつけ合う”という文化がなかなか育ちにくい状況にあります。だからこそ、こうした機会がどれほど尊いか。対話によって磨かれ、成長していく場の力を、改めて実感しました。
SNS時代に見失われる“主語”
一方で、SNSの発信を見ていると、ときおり「誰のための投稿なのか?」がぼやけてしまうようなケースに出会います。
称賛されるべきは登壇者であるはずなのに、発信の主語がなぜか“自分”になってしまう。あるいは、その場に関係のない人物が、講師との接点を求めるような発信をする。
こうした光景を目にするたびに、SNSの“承認欲求”という仕組みに、私たちがいつの間にか飲み込まれてしまっているのではないかと感じます。
子どもたちの学びに、つながる場でありたい
もちろん、SNS自体が悪いわけではありません。私自身も日々活用しています。
だからこそ、自分を高めることが、最終的に子どもたちの学びにつながっているのか。
称賛や注目ではなく、「学び合い」「支え合い」「育ち合い」という関係性が中心にあるかどうかを、問い続けたいと思うのです。
おわりに
たとえ目立たなくても、たとえ影響力が小さくても──
実直に、仲間と学び合い、子どもたちと向き合う現場を支える。
そんな“泥くさい”場づくりを、私はこれからも大切にしていきたいと思います。
SNSの向こう側にいる誰かではなく、目の前で学ぶ子どもたちのために。
その原点を、見失わないように。
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今回ご紹介した内容は、
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